かもがわのBLOG

技術と雑記です

【シン・エヴァンゲリオン劇場版:|| 感想】ぼくとみんなとお前たちのエヴァンゲリオン

あらすじ

冒頭は趣味全開のバトル描写だった。それから街を歩くシンジ,アスカ,レイは「迎え」に来てもらい第三村に帰還する。ここでシンジはトウジ,委員長,ケンケンの生存を確認。委員長✕トウジの赤ちゃんと委員長父にも出会う。仮称綾波は無垢で,人々と積極的に交流を行う。シンジくんはうつ病で動けず。

アスカは「大人なので」シンジくんにも優しい。ケンケンもぐったりするシンジくんをそっと見守る。ケンケンはアスカのこともそばで見守り続けているようだが、当のアスカはその優しさにこの時点ではあまり気づいていない様子。「自分の生い立ち」と「世界の命運」と「昔好きだった男の成れの果てへのいらだち」で頭がいっぱいな感じで「一人で行きていくしか無い」と孤独を決め込む。まあアスカちゃんは28だからね。無理もないというか年齢相応というか,年齢の割には一応これでもすごく周りが見えている方だけど。(私より年上だが...)

トウジは「分配長」「KREDIT」などとの関係でしっかり大人な付き合いをしている様子。村では原始共同体的な優しく温かい描写が目立つが、裏側では現実のそれらしい社会が繰り広げられていることをトウジの寝言や日常のやりとりから想像させられる。

仮称綾波は社会に関わって自己を獲得していく。「真面目に」働くので周りからも次第に受け入れられていく。シンジくんのことも気にかける。

「なんでみんなそんなに優しいんだよ!」 「みんな碇くんのことが好きだから」

シンジは「結局ぼくのことを殺さなかったミサトさん」「すごく怒っているのに,なんだかんだ気にかけてくれるアスカ」「ぼくのことをそんなに知らないはずなのになぜだか様子を見に来てくれるアヤナミ」「ぼくが生活をめちゃめちゃにしたのになぜか優しくしてくれるトウジ,ケンケン,委員長」のことを薄々気づいている。「みんな僕のことを嫌いなはずなのに,僕も僕のことが嫌いなのに,どうして?」との問いに,かつての綾波と同じ飾らない直球の言葉遣いで仮称綾波に「好きだから」=(別にぼくのことが嫌いじゃないから)とあっさり答えられ,シンジくんがはっきりと「みんな」の存在に気づく。ここで,20年以上に及び「ぼくときみ」の物語だったエヴァンゲリオンは「ぼくとみんな」の物語へと明示的に変わっていく。

動けるようになったシンジ。ケンケンと「釣り」(=父親との和解のメタファー:ゲーム版エヴァ)に行く。それからアスカも一緒にケンケン父の墓参りへ。「親父とちゃんと話せよ」との下りで繰り返し父親との和解を観賞者に意識させる。

「ちょっと、撮らないでよ」の下りも含め、アスカとケンケンがこの14年で相当仲が良いことを繰り返し暗示している。確かにケンケン(28)には加持さん(28)並の色気を感じるしそういう演出がなされている。アスカにも,アスカのことをアスカのままで好きでいてくれる=嫌いにならない人が存在することをここで既に予感させる。

「私の経験よ」の下り。ミサトとリツコの会話。ミサトがシンジくんを殺さなかったり「行きなさい!」と叫んだりすることがなぜなのか,くどいくらいに説明していた。ミサトは新劇場版中でもそうだが「母親失格ね」など自身を母親として繰り返し意識しているし実際にそのように描かれている。シンジくんと同じように育てられ同じように十字架を背負う身でありながらシンジくんの「母親」であるミサト。

このミサトは,EOEでは「大人のキスよ」など,年齢相応の幼い「母親」であったが,新劇場版ではずいぶん「大人」である。一方で自分の実子(R. KAJI)に対して自分がされたような突き放した子育てをしてしまうミサト(42)も,リアルな「母」であった。

アスカ,マリの出撃前。アスカとシンジの答え合わせ。シンジはあっさり「正解」を答える。第三村で宿題を与えられて以降,しっかり考えていたんだなと関心した。ここでシンジとアスカの関係性がはっきりと作中で言語化されたことになる。

冬月3,4番艦とヴンダーのバトル。ゲンドウは使徒化アスカを生贄にして13号機を覚醒させる。漫画版で既に説明されていたし新劇場版でも繰り返しほのめかされているが,マリが何者なのかについてもここで一応確定。ゲンドウの脳みそからサクラの茶番までを終えて,シンジは「母親」ミサト(42)に背中を押されマイナス宇宙へ。父親を止めるというだけではなく,EOEで,そしてQで助けに行ってあげられなかった「アスカ」を助けに行く。世界を救った後はマリが「待ってる」。

「シンクロ率無限大」「ゴルゴダオブジェクト」=ここからは現実と虚構の区別はない。物語と庵野と「エヴァンゲリオン」と観客が「補完されていく」。それだけではなく,「エヴァイマジナリー」=さようなら,「すべてのエヴァンゲリオン」ということで,「エヴァンゲリオン」の終わりを予感させる。言わずもがな映像はEOEオマージュ。

父親との茶番。ここはエヴァではなく完全に「特撮」になっている。もう庵野さんはエヴァもロボットも興味ないし特撮でやっていきたいんやな。そして電車での「対話」。言わずもがなここもEOEオマージュだが陳腐が一周回って斬新。漫画版などで繰り返し語られてきたようなゲンドウの内面が告白され,ゲンドウはシンジと,そしてユイと和解する。そしてシンジくんと「みんな」がEOEよろしく順番に「答え合わせ」していく。そしてシンジの身代わりに父母は磔になり,「みんな」との関係の中で「大人」になったシンジは「マリ」と「出会い」,「自分が安らげる場所」を見つける。EOEの浜辺で,アスカを殺そうとせずに「ぼくも好きだったよ」での和解。くどいくらいの言葉での説明だった。これまでの作中で徹底的に可哀想で救われなかった「アスカ」というキャラクターでさえもついに「みんな」と出会い救われる。そして約束通りマリは「迎えに来る」し,シンジは「待ってる」。子どもたちは「大人になり」,物語は文字通り終結した。

感想

以上,初見のチラ裏感想を供養。

全体的にしつこく言葉で説明していて,「一切の解釈や議論の余地なくこれで終わらせる」という強い気概を感じた。(これだけ作中でわかりやすく言葉で説明されていても明後日の方向の持論を展開してしまう人が多くてびっくりしているが...)

観測バイアスが多分に含まれるが,映像作品としては,エンタメの枠で考えたとしても陳腐であるとの評価が多いし私もそう思う。しかし,この巨大なコンテンツを終わらせるという偉業を,これだけ凡庸なモチーフだけで壮大に描ききったところはある意味で技術的にとんでもなくすごいことなのではないだろうか。また,エヴァンゲリオンという,非常に前衛的でメランコリックで知られていた作品の着地点が「ぼくとみんなの関係性」のようなありふれたところに落ち着いたのも感動的に思った。まさに「エヴァイマジナリー」の首なし胴体で表現される「お前たちのエヴァ」もみんなひっくるめて,「ヴンダー」のような直球のメッセージで貫いて「さようなら」を言い渡してしまった。観客としては「や,やられた〜!」と言わざるを得ない。本当に終わらせられてしまったなと。でも,「また会える」からね。これからも大好きな作品になると思う。

マリ=安野モヨコというのは明らかだが,「そんな私的なもん出すな」との批判(非難?)をよく見かける。しかし,この作品の着地点は「理解のある彼くん」としてのマリではなく,あくまでも「これまで仲良くしてくれたみんな」と「ぼくがしてしまったこと,これからしなければいけないこと」の話であって,EOEのような私的な自分語り的な枠組みはすでに放棄していることはシン・エヴァ中で繰り返し言葉で説明されている。マリという人物そのものは彼くん=救いのメタファーではなく,「これから出会う未来」「待っててくれている人」「内的世界に侵入する他者」といった程度のイメージの具現であって,彼女はもちろん重要人物なのだが,今作でシンジくんの救いになったのはあくまでアスカ,レイ,仮称レイ,父,母,ミサトなど「みんな」である。モヤモヤしている人は,二者関係的な先入観を捨ててもう一度劇場に足を運んでいただけると違った感想を持つのではないだろうか。

総評として,私にとっては非常に好きな作品だった。スタッフのみなさん本当にありがとう。